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今回から、数回に分けて事件の概要を追いかけていきたいと思います。
主たる引用元はウィキペディアです。

ただし、今回の引用が終了した後の考察などは極力ウィキペディア以外のサイトを使用していきたいと思います。

では、概略。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは、1988年から1989年にかけて東京都北西部および埼玉県南西部で発生した、幼女を対象とした一連の事件。

警察庁公式名称は「警察庁広域重要指定117号事件」。「連続幼女誘拐殺人事件」「宮﨑事件」「宮﨑勤事件」「M君事件」「M事件」とも呼ばれる。

概要
この事件は、3歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となったり、挑戦状を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人がとったことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件等との比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。

特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自殺したことで報道のあり方が疑問視された事件でもあった。

1989年7月23日、この事件の犯人である宮﨑勤が別の猥褻事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、現行犯で逮捕された。
なお、逮捕される前から宮﨑が過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたともいわれている。

宮﨑が自室に所有していた「5763本ものビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の調査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。
そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、後に宮﨑の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。

1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下る。判決の朗読では冒頭で主文の死刑判決を言い渡された(通常、死刑判決では判決理由を朗読した上で主文を後回しにする)。控訴をするも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。

弁護側は、宮﨑が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。
この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していた事が明らかになっている。

死刑確定後、宮﨑死刑囚は手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われる様な薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。

また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道された事を「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いの程を問われ「特に無い。良い事が出来て良かったと思う」と答えた事は遺族をはじめ世間から強い非難を浴びた。

2008年6月17日、東京拘置所に於いて当人の死刑が執行された。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られる事はついに最期まで無いままであった。

 事件
第一の事件
1988年8月22日、4歳の女児(以下KM)が誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体に猥褻行為をするビデオを作成している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人にどうして写真だけでは済まなくなったかを聞かれた際は「やはり二次元ではなく三次元の方がいい。感覚的に触れた感触がどうだろうかとか」と答えたが、第一次鑑定では「よく分かんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。 

第二の事件
1988年10月3日、7歳の小学1年生の女児(以下YM)が誘拐・殺害される。こちらはすぐさま猥褻行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。 

第三の事件
1988年12月9日、4歳の女児(以下NE)が誘拐・殺害される。NEは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、NEの全裸死体発見。12月20日NE宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人が他の被害者の遺体も送ることを計画するが、YMの遺体を発見できなかった。 

犯行声明
1989年2月6日、KM宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱が置かれる。2月10日には「今田勇子」名でKM事件の犯行声明が朝日新聞東京本社に郵送される。11日には同内容の犯行声明がKM宅に届く。3月11日、「今田勇子」名での告白文が朝日新聞東京本社とYM宅に届く。 

第四の事件
1989年6月6日、5歳の女児(以下NA)が誘拐・殺害される。NAの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。11日NAのバラバラ殺人遺体発見。 

現行犯逮捕
1989年7月23日、東京都八王子市で猥褻事件中に取り押さえられ、現行犯逮捕。
1989年8月9日、NAの殺害を自供。
1989年8月10日、NAの頭部発見。当日マスコミが嗅ぎ付ける。
1989年8月13日、KM・NEの誘拐殺人を自供。
1989年9月1日、警察庁広域重要指定117号に指定。
1989年9月2日、検察が起訴に踏み切る。
1989年9月5日、YMの殺害を自供。
1989年9月6日、五日市町でYMの遺骨発見。
1989年9月13日、KMの遺骨発見。
幼女を殺すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったという。

- - - - - - -引用ここまで

一旦引用を中断します。

 宮崎自身は自分自身の死刑に対しては「人権侵害」とか「恐怖」を訴えていたようですが、殺した少女たちや遺族への謝罪、反省の言葉は最後まで聞かれなかった、といいます。
 彼は「悪いことをした」とは思ってない、ということは容易に想像がつきます。

明らかに普通の思考状態ではありません。

かといってこれが精神薄弱の状態である、とも言いがたいのです。

彼の思考の根底に根付く考え。

それがわからない現状で結論を導くのは控えて、次回に続きます。




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無題
こんな変態グズの処刑に20年もかかったのか…(=´д`=)
被害者可哀想にニャ
ひねこ 2008/07/02 (Wed) 21:47 編集
無題
ただの自己チューにしか思えん。
キンクロッチ 2008/07/02 (Wed) 23:31 編集
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〇マイペースじゃないと生きて行けません。

〇基本的にインドア派。

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〇ルックス、知識、経済力、運動神経全てママンの体内に置き忘れて産まれてしまいました。

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〇でも楽なので修正する気ゼロ。

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